昭和44年09月23日 秋季御霊祭
「神の大恩を知らぬから、互い違いになってくる。神の大恩を知れば、子孫も続き身代もでき、一年勝り代勝りのおかげを受けることができるぞ」
と教えておられます。神の大恩を知れば、神の大恩をしらぬから互い違いに成って来る、と云う事は、神の大恩を知らぬから難義な事に成って来る。と云う事だと思うんです。神の大恩を知れば、互い違いになると云う事もない。子孫繁盛、家繁盛は均等に家内円満に行く事が出来る、それだけでない親の代より子の代、子の代より孫の代と、繁盛する事が出来るぞと教えておられます。
お互いがもうそれこそ、願ごうて願ごうてやまない、事でが御座いますよね、子孫繁盛のおかげを頂きたい、互い違いに成る様なことが来ない様な、言わば神んながらのお繰り合わせのおかげを頂きたい。金銭の上にも人間関係の上にも様々な意味においておかげを頂きたい。今朝からこの御理解を頂きましてから、いろいろ思わせて頂くのですけれども、神の大恩を知らぬ氏子がどれ位あるか解りません。
神の大恩を知らぬ為に、例えば今日の御霊様の世界に入らせて、頂いて魂の世界に入らせて頂いても、魂が有難いと云う事を知らない、神の大恩を知らぬからで御座います。「神の大恩を知ると子孫も続き家も繁盛し、しかも一年まさり代勝りのおかげを受ける事が出来るぞ。」と仰る。私共は神の大恩を知っちゃおらんのです。おかげは知っておりますけど、お願をしておかげを頂いて、おかげの有難い事は分かっておるけれども、神の大恩が分かってはいない。そこにお互いの難儀があるので御座います。
いわゆる互い違いという難儀があるので御座います。昨夜、例によりまして今朝方まで掛りまして、今日の御霊様たちのお祭りを受けられる事の為に色々とご準備のおかげを頂きました。みんな寝静まってしまった後にこちらに出てまいります。神様との対決であり同時に御霊様との対決である。今度はどの様な御霊のお祭りを皆さんが受けられるであろうかと、有難い御霊様のお祭りであらねばならないそれは、お互いが御霊様と私共とが本当に拝み合うと云う事は捧げ合うと云う事。
捧げ合う様なお祭りにならなければならない。そういうおかげを頂きたいと思うてご神前に出らして頂きました。段々お願をさして頂いておかげを頂いておりましたらね、急にこちらの左の耳が耳底が疼く様にキリキリと痛むんですご祈念中に。これは皆様本当にそこの所を思い込みを作って頂きたいと思うんですけれども、痛いとか痒いとか云う事はもう絶対神様のご都合なんですよ。
痛いとか痒いとかと云う事は、絶対神様のご都合なんですから、どんなに痛みよってもつつきよっても、走りよってもです、神様がおかげを下さろうと云う事になったら手の平を返す様なものだ、是はもう私は何時も体験します。ですからね、此処の所をひとつ皆さんが思い込まして頂いて、はあ夕べ食べ過ぎたけん胃がせきよるとじゃろうてんなんてん、勿論食べ過ぎたもありましょうけれども。
そこのもう一丁向こうに痛まなければならない元があるので御座いますから、その元を分からせて頂く処から、もう手の平をかえす様にもうそれは段々信心が進んでまいりますと言うと、私がいかにも進んで居る様ですけれども。もう本当に例えばお結界に座っておりましてからですね、もう急にお腹がせき出しましたり、または背中が痛みましたり、もうキリでもむ様にどこが痛かったりする事があるんです。
肉体を持っているから、仕方がないと言えばそれまでです。けれどもそれがですね、それからもう手の平を返す様に、その痛みを取って下さる。そして私に教えて下さる事は、「痛い痒いというのは神のご都合ぞ。」と云う事を教えて下さる為に、そう云う事が時々あるんだと思うのです。ですからそこんところをひとつ、よく本当に信じれるおかげを頂かなければならない。
私は昨夜ご祈念中に、左の耳の底がズキズキ痛んで、痛みますから私はすぐ思うた。先日から有難いと云う事は、もう沢山ですけれども。矢張りもう漠然とした有り難さではいけん。今日先にご理解を申しました。「神の大恩を知らんから。」というもう神の大恩というたら余りにも大きい広過ぎる、ですから神様のご恩徳の中に、生かされて生きておって有り難いというておるけれども、本当にその実感的な有難さになって来ない、その有難さが行動にまで移って行くと、云う様な有難さに成って来ない。
そこで焦点を小さくしましては、先日から私が皆さんに云うんです。とにかく目が見えているでしょう、その目が見えていると云う事が有難いんですよ、ちよっと目を瞑って見てご覧なさい、目が見えないお先真っ暗である。もしこの目が見えていなかったならばもう、それこそ矢張り探って取らなければなりません、ですから時々矢張り目を瞑らないといけん。私はその御理解を頂いてから御結界で、もう出来るだけ目を瞑っておる様にします、確かに見えない、そしてこうやって探ってものを取らして貰う。
どうしても解らん時には少しばかり目を開けてみる、一遍にあけると勿体なか。だから少しばかり薄らぱぁっと開けただけでもう見えますからね。片目をパチッと開けるともう視野がこんなにも広がって来るですからね。そりゃぁもうとにかく、目が見えると云う事は不思議な事、いや目が見える事だけではない、けれどもです。目が見えると言う一言だけだってです、とてもそれは不思議で不思議で堪らん。
有り難うして有り難うして堪らん、というおかげを頂かせてもろうて、今日は一日目が見えておると云う事に一生懸命お礼を申して行きなさいと云うて私は皆さんにもう一週間前の朝のご理解に申した事出御座います。以来私はこの目が見えておると云う事が、本当に有り難いなと時々目を瞑ってみては、その見える事をいよいよ確認する。まるごと真っ白になっとる目を開けたっちゃ見えんでしょう、とにかく目が見えておる事を確認すると云う事がですもうとにかく、有難いだけではない。
目が見えておると云う事を、確認したら、耳が聞こえておる事も確認出来る、手が動いておる事も確認できる、歩けるということも、もう全て、おかげに目が見えるというその有り難いという心で、全ての有り難い神の大恩を一つ一つキャッチしていく事が出来る、有り難いと思わして頂く事が出来る。だからね、ここんところを、一つお互いが思わないといけんのです。
昨日はもう、御霊様の事ばっかり考えよるもんじゃけん、目の有り難さがちよっと薄らいどったかと思ったんです、御祈念中に、左目がズキズキ痛む様に痛む。今日はもう、御霊様の事ばっかり考えてから、ほんとにそういう目が、見えていると云う事の事実に対してです、お礼心が欠けておったなあと、思わせて頂いたら、もう瞬間おかげ頂いた。それからが有り難い、本当に目が見えて居ると云う事が「有り難い有り難い。」とそれが今日もまだ続いている。
私がこうして御祈念さして貰う、こちらを向きましょう、すると私はこちらの左の耳がぜんぜん聞こえんのです、だから御結界も此方にこう向ている、こちらの耳は全然聞こえんのです。こちらの耳は神様が使う仰ってから、こんなに耳が聞こえん様になった、何時も頂く訳じゃないですけれども、突然大きな声で頂く左の耳のここから入って来る。昨夜私がこうやって御祈念をさして頂いておりますと、此方の方からですから正しく御霊様の方からだと私は思ったんです。
その「入ってくる」と云う事がどう云う事かと言うとですね、御霊様の喜びとでも申しましょうか「やれ嬉しや、やれ喜ばしや」と声が入って来る、「やれ嬉しや、やれ喜ばしや」としかもそれがもうずぅと入って来る。沢山な沢山な御霊様が今日お祭りを受けられる御霊様たちが「やれ嬉しや、やれ有難いという心と、私が今朝から思わして頂きました事はです、どんなに御霊さまのお祭を麗々しゅう仕えさせて頂ましても。
大勢でお仕え致しましても、仕える一人一人の心の中にですね、やましい心汚い心イライラする心腹立ちの心、そういう心で御霊様を拝んだ所で、御霊様がお喜び下さる筈がない。私が御霊様方の明日のお祭りを愈々、より有難いものにさして頂かなければならないという前に目が痛み出した。是は目が見えていると云う事の喜びが、少し欠けておったなと、否忘れておったなと思わせて頂いたら、突端に目の痛みが止まった。
そこから有難いものが限りなく湧いて来る。この私のですね「やれ嬉しや、やれ有難や、もうやれ嬉しや目が見えておると云う事は。盲目になった人が手術を受ける、包帯をしてそしてその、包帯を一週間なら一週間、十日間なら十日の後に取らして貰う時にです、あかるい光が入って来る、目の前に人の姿が見えるものが見える、その時の喜びが「やれ嬉しや」ではないでしょうかね。
その「やれうれしや」という心で明日の御霊のお祭りが受けられると御霊たちが思われた。今大坪のあの「やれ嬉しやというあの心で明日の御霊のお祭りが受けられると思う時に「やれ有難や」と云う事になって来たんだと私は思う。「やれ嬉しや、やれ有難や」と、私は「神の大恩を知らんから、互い違いに成って来る」とこう仰る。そこで神の大恩を解き聞かせられて、全ての事が有難い。
全ての事が神様の、ご恩徳の中にあるのだと教えて貰うけれども、あまりにも全てなもんだから、分かっておるけれども、有難いと云う事になって来ない。小倉の初代は水のご恩徳を特に説かれた。ひとすくいの水にそれこそ、満腔の回る心を持って感謝の念を燃やされた。その水の有難さを分からせてもろうて、本当に解らして頂いたら、食物の有難さが分かり全ての有難さが分かって意くと言うのが有難い。
有り難い、有り難いというておってもね、その有り難いが、こう繋がって行かなければほんなもんじゃないほんな事、目が見えとるちゃ有り難い事、手が動きゃ有り難いこつと思よるだけじゃいかん。本当に私が目が見えると云う事が、有り難いと云う事が解らして頂いたら、その事のお礼を申さして頂いておりますと、いわゆる耳が聞こえる事が有り難うなって来る、手が動いている事が有り難う成って来る、と言う様にですそこに始めて神の大恩を分かって行く訳なんです。
互い違いになるとこう仰せられるから、神の大恩を知らぬから互い違いになると仰せられるのじゃから、まあいうなら信心は見やすいものじゃなあ。目の見えると云う事をひとつ、本気で有り難いと解る所までおかげを受けにゃいけません。これは目だけではないのですけれどもね、目が見えておる、もしここに盲らさんが参って来とんなさるとするなら、ああ目が見えるとん有り難さが解らんなら。
こりゃあたしだんもう生涯救われないと言う様な事ではない。目が見えない、例えばなら盲目の人はです、耳が聞こえておる事でいいのです。手が動いていると云う事だけでもいいのです。そこに本当に心から、やれ目が見えていると云う事が、やれ嬉しやと云える様な、その喜びがです私共に頂けます時にです、やれ嬉やというおかげが繋がるのであります。今日の御霊様のお祭りは少し、今までと変っておりましたですね。
新しい御霊様達のご遺族の方達に、先に御霊様の玉串をあげて貰いました。中に岩井さんがちょっと遅うなしてから、もう大坪家の人が上げようとしよる時にやって来た、だから、あそこ高橋さんがしとられましたが、「これが済んでからとかなんか」云われたんでしょう。向こうに行きよんなさるから私はこちらからおらんで岩井さんに早く玉串をあげさしなさい」とこう云ったのはです。
「今日はね新しいここにご縁がある御霊様達が一線を引いた様に、そこに一線上に出ておられるんだ、正面に。」ちょうどここで移り変わり、玉串を上げられた様に、だから自分達が受けた後に、又いうなら大坪家を始として遺族の方達が教徒信徒の方達、一般信者の方達の玉串を受けられる後に控えておられる。だからあたしゃ岩井さんの方を先にあげなさいと申し上げたのです。
そう言った事も昨日頂きましてから、今度そう言う風にさして頂きました。同時にもうそれこそ沢山の数限りがない程しの沢山の御霊様が合楽のお広前に、ご縁を頂いておる信奉者、昔から椛目時代からご縁を頂いておって今はもうお参りもしない御霊様、預けたままの人も沢山居ます。そういう御霊様が、先日も台帳を整理するのに、「先生もう参ってこん御霊様はもう捨ててしもうてから。
どこさんかやりましょうか」ち言うから「そげんな訳にはいかんよそげんな訳にはいかん。」と云うて申しました事ですけれどもね。、そういう御霊様達がですね沢山あられると云う事、そこで私はその事をですね今日のうち総代さん十名にお願いをさして頂いた。あなた方がね総代としての責任においてです。「ここにご縁を頂いている御霊様達が、玉串ひとつ受けられない御霊様達が。
肩身の狭い思いをされる御霊様達が沢山おられるから、あなたたちの御霊様の事はもう置いといて、そういうここにご縁頂いて、言わばそう寂しい事になって行きつつある、またなっておる御霊様達に対して玉串を捧げさして頂くんですよ。」とだから一番最後に今日は総代さん方があげて頂かなきゃならんというので、それぞれ最後に玉串を上げた訳です。私はもう形式と云う事は大変大事な事ですけれども。
形式よりも本当の事がもっと大切なんです。こうやって私は御霊様のお祭りを奉仕させて頂くたんびに思うので御座いますけれども、ご縁を頂いて信心がある御霊はね矢張りあちらでも一生懸命の信心が出来ております。金光大神のお取次を頂いて一生懸命信心しておられます。けれども、それを知らない御霊はです矢張り、何時までも何時までも苦しいのは当たり前の様になってしまっておる。
そういう例えば御霊様達がです沢山おられますから、その御霊様たちが信心が分かりそして御霊ながらも金光大神の取り次ぎによって、天地の親神様の懐の中で、もすこし御霊の位も進まれ力もうけられて、もすこしましな御霊様の働きが出来るくらいなおかげを頂いてほしいと願う事は、皆さんと御霊さんと同じです。先日久留米の石井さんの所の娘さんが、「しんご」という家に縁ずきましたが、ご主人もなくなりご自分も後を追う様にして亡くなられました。
ちょうど亡くなられまして三年になりますから、三年の式年のお祭りを仕えてほしいというので御霊様のお祭りをここでさして頂きました。私はもうその時本当に思いましたですね、丁度夜の御祈念に合わせてで御座いましたから、お祭りを仕えようとしよりましたら、高芝さん達夫婦が夜の御祈念に、とに角夜の御祈念に参って来た、というのは、もうとにかく小一年ぶりに参った。毎朝朝参りしとりますから夜参った事はない、しかもその「しんごみやこ」という人は高芝さんの姪に当たるんです。
私は石井さんが恐らくあちらに言うてあったじゃろう、「今日こうしてみやこの式年祭さして貰うから、参ってくれる」と言うてあったであろうと思うとったんです。こうやってそこに並んどられる、始まる前に、後から聞かせて頂いたら、知らなかったと、玉串をあげられた。いかに御霊様の働きを思わない訳には参りませんでしたが。段々御霊様に色々とお礼を申し上げたりご報告さして頂いておりましたら、御霊様からこう言う様なお知らせを頂くんですよ。
御心眼にね私が頂きますのがとうきび、トーモロコシトーモロコシの上の赤頭というのが黒くなった時が中に実がいっぱいなった時ですよね、それがまだ黒くなってない、半分ぐらい赤黒くしておるそのとうきびをね。こうやってその中味の皮を少し剥いでこう見せて下さる、ははぁあこれは実がいっぱい入っとらん未だびしょびしょ、この赤頭がも少し黒くなったら是に実がびっしり生える事であろうけれども、と思わして頂いたら「御霊様の五年の式年祭をめざして修行させて頂いています」と云う事であった。
「五年の式年祭を目指してもっと増しな、御霊の力も位も頂きたいと、その為にただ今修行中です、から中に実が入っておりませんけれども」というお知らせであった。如何に御霊様もね、矢張りご信用を頂いて信心の稽古をしておって、矢張り御霊の世界に行かして頂いても、金光大神の御取次を、いや親先生の御取次を頂いて、御霊ながらに御霊の修行をさせて頂いて、しかも五年祭を期して、もちっと増しな力を頂きたい、もちっと力を受けたいというて、御霊様が一生懸命修行しておると云う事を頂くんです。
だから。私は石井さん高芝さん達に申しました「みやこさんがこの様にして一生懸命ただ今修行中だからあなたがたも一生懸命修行して下さい、いわば修行の伴走というか修行のお手伝いというか、それは御霊が助かる事だけではなくて自分自身たちの助かる事にも繋がる事ですから、御霊もあのように一生懸命ですから皆さんも一生懸命修行なさって下さい」と云った事でした。ですからね。
私は本当にこの御霊の世界というものをですね、私は皆さんが何かの意味合いにおいて、確認なさらなければいけません。でないとどうしても形式に終わってしまいます。心からの御霊様のお祭りが出来る様な為には、どうしてももう一段信心を進めなければいけません。天地の親神さまでもです、片島せんという大変お徳を受けられた・・?先生が居られました、その先生にある時に神様が、この先はもうご神前に額ずかれるといちいち神様がお話になる、お伺いをされるとそん時にご返事なさる。
ある時ご神前に額ずかれて御祈念なっておられると「世界中の氏子に話がして見たいと仰った、世界の氏子に話がして見たい、けれいども聞く耳を持たんからせんに及ばん」と嘆かれたそうです。何故神様がね話しをして見たいと思われるのでしょうか、何故世界中の氏子に話をして見たいと思われるのでしょうか。お話がもし出来たら「おうそれはおまえ間違いではないかと、そうじゃないぞこうぞと教えて下さる事も出来るけれども、さあ聞く耳を持たんからせんに及ばん」と仰った。
それこそ神様は大音声所じゃない、先日阿蘇で総会が持たれました、あの阿蘇の噴火口に立たせて頂いて行くたんびに感動する、天地が生きてござる印しだ、天地があの様に凄まじいまでの勢いを持って、天地が生きて御座る印しをあの様にして見せておって下さる。凄まじいまでに私共にそれこそあの爆音、地を揺るがす様な、言わば大音声をもって私どもに話し掛けておって下さるので御座います。
けれども余にも偉大で大きいから反って耳に入らん、それにはです。私共がね小さい、たとえばテレビでもラジオでもそうでしょう、ガンガンといっていると何ち言よるか解らないでしょう。天地の親神様のお声はあんなもんなんです。そこで私どもが真にありがたいと言ったような心をです自分の心のダイヤルというものをきちっとこう合わせる様になりますとですこの音が静かに静かにこれに響いて来る様になるのです。
世界中の氏子に話がして見たい」と仰せられるのは世界中の氏子に本当の助かりを、それこそ嬉しい喜ばしい毎日の生活をして貰いたいというのが神の願いなのである。それに、それとは反対の事ばっかりを思うたり考えたりしておる、幸せになれないそれではね何時まで経っても人間の幸せはない、世界中の氏子に話がして見たいと仰せられるのですから、そんなら合楽の信奉者全部の者に話しがして見たい。
合楽の信奉者の全部が、神の声を聞ける様におかげを頂く為に、心のダイヤルを、愈々正確なものにして行かなければならん。そこにです目が見えると云う事が有難いという小さい小さい、そこん所に合わせる訳ですよ。こう見えて居る事が有難い、それこそ目を瞑れば、一寸さきは闇の夜である。目をあければ見える、やれ嬉やというその心が実感として私達の心から出て来る様になりますと。の実感が耳が聞こえておる事も又有難い、手が動いて居る事も有難い、否全ての事が有難いと言う事に成って来る。
あれもおかげであった是も、おかげであったと分る様になると「まこと」本当の信者じゃと仰る、その私共がです聞えて来る様になる。あれもおかげであっつた是もおかげであったと分かる様になる。そこで神様は噛んで含める様にご理解を下さって、耳が聞こえない人達にも、耳が聞こえる様に云うて下さるのであります。昨夜の御理解に皆さんに聞いて頂いたんですけれども、先日お供えを頂いた小さい本がお供え頂いた。
それを開かせて頂いたら、一番口に書いてある事がですね、素晴らしい事だと私は思うて、他にいろいろありましたけれども、こう云う事が書いてありました。「人は人なか木は木なか」と言う事、皆さんは知っとられるでしょうか「人は人なか、木は木なか」人は人の中木というは材木の事、木は木中、是はね鹿児島の向こうに屋久島という所があります、屋久杉で有名な所です。
それこそ二千年三千年も経つ様な杉がうっそうと生えているという島なんです。日本一の言わば杉のとれる産地なんです、その屋久島でね、屋久島で生まれた言葉だそうです。偉い人が考え出したのでもなければ勉強して分かったのでもない、いわゆる普通の、言わば普通の人達、平人の人達が仕事の中から、分かった言葉なんです、それはね。「人は人中、木は木中」というのはね。
沢山の木が生い茂っている訳ですこんな木が、それをね中から一本だけ切りますとね、他の木が段々勢いを無くして枯れて行くそうですよ不思議な事ですね。沢山あるけんくれたらちった元気が出そうなもんですけれどね、その一本を切りますと外の木が枯れて行く。人は人中木は木中なのである。人間でもそうなんですもうこんな難儀な事は嫌だと、向こうへ押しやるもうあんな奴とは、付き合いたくないというてもう絶交する。
雇うている使用人の中にあっても、自分の都合のよかつばっかりが有難い、自分の云う事を聞かんとはもう早よう追い出そうごとある、是では「人は人中」と云う事にはならんの。その自分には根性の悪い、例えば自分をいじめる、そう言う様な人もあって始めて是が立ち行くのだ、こんなの向こうに押しやったらです、これ自身が枯れて来るのです。これはもう天地の道理なんです、人は人中、木は木中なのである。
してみるとですしてみるとこの人は、と拝まして頂ける様な心が生まれて来る、始めてあれもおかげであった是もおかげであった、と分かる様になる。それを有難く頂いて行かなければです「人は人中」と云う事に成って来ない、本当の繁盛に成って来ない。あれもおかげであった、是もおかげであったと話せば是だけですけれども、そういう「あれもおかげであった是もおかげであった。」と。
分からせて頂く見えてる事は当然有難い、動いて居る事は当然有難い、その当然有難い事すらが私共が迂闊にしておる。ですから当然お礼を申し上げねばならない天地の大恩の一部ではありますけれども、目が見えておると云う事に有難いと心の底から有難いとお礼が申し上げれる、それこそ目が覚めた見えておる、やれ嬉やと目覚ましのおかげを頂かにゃいけなません。その「やれ嬉やがやれ有難やに繋がるのです。」
その様な稽古をさせて頂いて行く内にです、あれもおかげであった是もおかげであったと分かる様な信心が育ってまいります。そこに私共が何時もが有難い、どちらを向いても有難い、有難い中にあるから、それを称して私は「極楽」だと思う、そういう極楽の心をです、魂が清めにも清められた上にも魂がその喜ぶ、その喜びの心を捧げるのです。神様に自分の周囲に妻は夫に、夫は妻に捧げ合うのです。
始めの間は、捧げ合うとるけれども、終いには、「ちよっとちょっよあれば取ってくれんかち言や、あなた取りなさい」と言った様な捧げ合わん、是は夫婦だけの事ではありません。捧げ合うと云う事なんです、信心とはその捧げ合う生活、そういう生活が段々出来て来る処にです、神様のご信用が付いて来る事は勿論、この世は極楽と私は謳歌出来る生活が出来る。それがそのまま、あの世にも繋がる。
あの世にがるだけではない、この世にも残しておけるという、有難い事に成って来るのです。成程「神の大恩を知らぬから互い違いになる。神の大恩を知れば身代もでけ、人間も出来無事達者、然かも一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来るぞ。」と仰る。私共が願って止まないおかげは是なんだ。だから是を頂きたい為には、今日私が申しました「目が、例えば見えると云う事にです目が見える、やれ嬉や。」と。
心からそういう心が湧いて来る様な所まで、修行しなければいけません、修行すりゃ出来ます。その「やれ、嬉や」というそれが「やれ有難や」というおかげが受けられる事は勿論、しかもその「やれ見えると云う事が嬉や」がです全ての有難い天地の大恩という全ての神様のお働きに対して御礼を申し上げる生活が出来る。余にも大きい処に、神様のご恩徳の中に生かされて生きている。
有難いだけではいかん、「やれ嬉や」が出てこない、その「やれ嬉や」が出て来る所まで、一つ皆さん合楽では「目が見えると云う事」にです「ああ見えたと、私はもう本当にびっくりする程のね喜びが湧いて来る様なひとつ信心の稽古をさして頂きたい。可笑しなようですけれども、たまには矢張り、自分の目を瞑って見て絆創膏で貼っとったっちゃよか、ほんとそれぐらいの稽古をせにゃいかんですよ。
私はこの頃はね、風呂にはいってから風呂ん中だけでは片目で入る事に決めた、両目で入るのは勿体無か、もう片目だけでも十分見えるんですから、もう片一方はこうやってよこわせとる。ほんとに私はそれ位な私は稽古するならね、可笑しいけれども、そうして見る事によって、見えている事の有難さ、いわゆるやれ嬉や人の出て来るおかげを頂く為にそういう信心をなさったらどうでしょうか。
そして私共が、がですね、本当に魂の世界御霊様の世界に、おかげを頂かせて頂いた時には、そうしてまだまだお導きの出来ない人達を、あちらでも又お導きが出来る位の心境を頂きたいと思う。私は本当に御霊様のお祭りの時に、それを思うんです実際に皆んなにも見せたい、皆んなにも聞かせたいとそう思うんです。ですから私共はそれ位のね、この世でのお導きは勿論だけれども私共が御霊の列に入らせて頂いた時にです、未だ助かってない御霊様を、お救い出来る、お導きが出きるぐらいのおかげをです。
もう絶対教祖の神様がね、神様の世界御霊様の世界では、厳然としてあの様にお取次ぎを下さってあるんですよ、もう間違いないんです。ですから、先程「みやこ」さんの例を取りました様にです、「御霊ながらにも五年祭を期して修行致しております」と言う様な、御霊ながらの修行をしておる御霊もあるかと思うと、いくら云うても云うても言うて聞かせてもです分からん御霊も沢山あります。
そういう意味において今日総代さん方が玉串をあげて下さったと云う事は、いうならばお導きのその切っ掛けを作って下さった様な気がいたします。これからの御霊様のお祭りは、あの様な今日のような事でおかげを頂く事になりますでしょう。どうぞ一つ今日の、御霊様のお祭りのその喜びがです「目が見えると云う事がより、嬉やと分かるおかげを頂かせてもろうて「やれあ理型や、やれ嬉や、やれ」忘れた。
どげんでしたかね、やれ嬉やからどげんでしたかねやれなんですか、」はあやっぱ皆が覚えとんなさった、それを覚えておかにゃいかんです、「やれうれしや」にいまんとが付いとっとです。(笑)どうでもひとつ、そこん処のおかげを頂かせて頂いてです、信心さして頂いておるおかげ、合楽にご縁を頂いておるおかげで、この様な事が分からせて頂くという、喜びの信心生活をさして頂たいとおもうので御座います。
どうぞ。
久留米の初代、三井教会の初代の信心を例に引いての、今日は御理解でございましたね。人間は一生が修行じゃと仰せられるのですから、どうせ苦労しなければならないならば、それをやっとかっと受けていくと言った様な、修行ならば修行でなくて苦労です。そういう心で縋る、これは神様にぶら下がって、信心していきよる様なもの、神様がきついならば、こっちもきつい。もういよいよの時は、手ば離そうことになっている信心まで落としてしまう。心の凝りを取る必要がないほどしの、心で信心をしてるから信心が進んでいかない筈がない。人は凝りを取る事に骨折りよるとです、又は凝りを積んだままいかに信心したとか、よい信心が育つ訳がありません。